第2回:最初のマトリョーシカ。
2008-07-01掲載


マトリョーシカのことならまかしとけ!
と、始まった
『週刊リョーシカ!』の
マトリョーシカをたっぷりと知る新連載、
「ほんとうのマトリョーシカ。」

マトリョーシカ3点

前回に引き続き、
東京・国立にある一橋大学副学長で、
社会学博士の坂内徳明教授に、
お話をうかがってまいりますよ。
では、さっそく、どうぞ。

一橋大学坂内徳明教授

snowflake

マトリョーシカの歴史は、ほんの100年
わたし 前回のお話で、マトリョーシカが、
ロシアの伝統的な民芸品ではない、
というのには驚きました。

坂内先生 そもそも最初のマトリョーシカが作られたのが、
1890年代ですから、たかだか
100年ぐらいの歴史しかないんです。

古くからのしきたりだと思っていたら、
実は、比較的最近のものだった──
というようなことは、
私たち日本人にも、時々あると思いますよ。


現存する最初のマトリョーシカを収めた図版。

坂内先生 最初に作られたマトリョーシカは、
図版もいろいろなところに載っていて
誰が作ったかということもわかっています。

モスクワの近くにあったマーモントフ家のアトリエで、
S.V.マリューチンとV.ズビョズドチキンという二人が、
作ったと言われています。

おそらく、いろんなものを作り出すなかから、
日本から持ち込まれた品物を手にしたりしながら、
マトリョーシカを生み出したのだろうと思いますね。

ちなみに、この二人のうちマリューチンというのは、
もともと画家として有名な人物です。

日本からロシアへ渡ったもの
わたし ところでマトリョーシカのルーツが
日本にあるというのは、どうしてなんですか?

坂内先生 それは、マトリョーシカの特徴のひとつに
入れ子式であることが挙げられますが、
これがどうも箱根から行ったのではないかと
考えられるんです。

でも何を持ち帰ったのかというと、
「こけし」なのか、入れ子細工の箱なのか、
また七福神のひとつである
「福禄寿」の入れ子人形なのか、
といった具合で、諸説ありますね。

わたし 「福禄寿(ふくろくじゅ)」は
「福禄人(ふくろくじん)」とも言うようですね。

つるつるの長い頭なんか見ると、
確かにマトリョーシカに似ています。

坂内先生 当時日本に来たロシア人というと、まず函館ですね。
江戸時代末期の1861年に聖ニコライが来日して
函館に教会を建てて、布教する。

そのあと1880年頃に箱根・塔ノ沢に
ロシア正教会の避暑館が建てられて
ここに聖職者などがやってくるようになります。

最初のマトリョーシカが作られたのは
ちょうどその頃ですから、
箱根~伊豆半島の辺りへやって来たロシア人の誰かが
持って帰っただろうという推測ですね。

しかし、誰が何を本当に持って帰ったかというと、
残念ながら、特定できていないんです。


最初のマトリョーシカが生まれたところ
坂内先生 モスクワの市内ではなく、少し郊外へ出たところに
今でもロシアを訪れた観光客が
必ずといっていいほど見に行く、
二つの町があるんですね。

ひとつは、セルギーエフ・パサート。
モスクワから直通バスで
1時間ぐらいのところにあるんですが
ここがまさにロシア人にとって、
そもそものキリスト教の聖地なんです。

その聖地というのが、なんとも言えない、
ちょっとタイムスリップしてしまったような
不思議な雰囲気の場所なんだなあ。

とにかくロシアじゅうから──
シベリアのような遠いところからも
たくさんの人々がここを目がけて歩いてくる。

わたし
日本で言えばお伊勢参りみたいな感じでしょうか?


坂内先生 そうね。僕も何度も行ったことがあるけれども、
ぼろぼろの服を着て、ようやく辿り着いたような人が
柱のふもとで休んでいたり、
かと思うと全身ブランドで固めたような青年が
颯爽とスポーツカーから降りてきて、お祈りしたり、
もちろん聖職者だってたくさん歩いているし、
観光地でもあるから、
観光客ががわーっと集まったりもしている。
日本ではちょっと考えられない風景ですね。

わたし
ふむふむ。

坂内先生 そこで最初のマトリョーシカが作られたのが、
一説には、どうもこのセルギーエフ・パサートの
近郊だろうというんです。

モスクワという大市場へ上る、
通り道でもありますしね。

聖地のすぐ傍には、おもちゃの博物館があって、
冒頭でご紹介した最初のマトリョーシカも、
現在、その中に展示されています。
見学することもできますよ。


坂内研究室の本棚

坂内先生 もうひとつは、
セルギーエフ・パサートに近いところにある
アブラムツェボという、町……
というより村です。

ここに19世紀末、お金持ちが自分の屋敷に
ヨーロッパで絵の勉強をした人、
それから美術だけではなく
将来有望な音楽家や陶芸家などを集めて、
村を作ります──メセナですね。
若い才能のある人たちが1年とか半年とか滞在して、
食器を作ったり、絵を描いたりしていた。

このため、アブラムツェボはそれから
20世紀初頭にかけて、
ヨーロッパの最新の芸術と、
ロシア古来の民芸がひとつになる
非常に大きな芸術活動の拠点となっていきます。

ここでできたいろんな芸術・民芸品が
ヨーロッパへ紹介されていき、
さらに当時のヨーロッパ、そして世界へ広まっていく。


マトリョーシカは逆輸入で注目された!
わたし すると……そういった流れで、
さほど歴史のないマトリョーシカが、
次第に有名になっていくのですね?

坂内先生 ええ。マトリョーシカが世界に広がった理由は、
やはりなんといっても
1900年にパリで開催された万国博覧会です。
この時にロシアから
マトリョーシカが出品されて注目を集め、
ヨーロッパで評判になります。

つまり、マトリョーシカは他の民芸品とは違い、
ロシアの中に広くあったのではなくて、
発信地としては非常に限定的なんです。

モスクワ近郊のいくつかの村で作られたものが、
外国で有名になって戻ってくる。
──つまり、逆輸入なんです。

わたし
逆輸入ですかあ。


(つづく)



坂内徳明先生 プロフィール
ばんない・とくあき。一橋大学副学長・大学院言語社会研究科教授、社会学博士。1973年東京外国語大学外国語学部ロシア語科卒業。歴史的な視座からロシアの社会、宗教、神話と民衆文化の現場に注目し、これらを取り扱う民族学をその時代とともに考察・解明する研究で知られる。近著『ルボーク―ロシアの民衆版画』(東洋書店・2006年)など著書・論文多数。


週刊リョーシカ!
トップページへ
ページの最初へ