2008-07-15掲載
『週刊リョーシカ!』の
マトリョーシカをたっぷりと知る連載、
「ほんとうのマトリョーシカ。」も
おかげさまで、このたび第4回目を迎えました。
そうそう、先週は、
あっと驚く意外な話が飛び出しましたっけ。
坂内先生いわく──
マトリョーシカの元となる「マトリョーナ」は
決してロシアで一般的な名前ではない。
そこで今週も、さっそくこの話のつづきから、
お聞きしてまいりますよ。
お答えくださる一橋大学・坂内徳明教授の
プロフィールは
こちら
から。
では、どうぞ。
ロシア人の前で「マト」と言ってはいけない!?
「マトリョーナ」って、
よくある名前ではないんですか?
ええ。むしろ珍しい名前だと思います。
もちろんロシア人の名前は
ほとんどがみんなクリスチャンネームですから、
そういう意味では外国語がロシア化したものです。
「マトリョーナ(より正しくはマトローナ)」も
ラテン語から来たものですね。
語源が、実は「マザー(mother・母)」
と同じなんです。
つまりマトリョーシカは、語源的に
「マザー」とつながっている。
マトリョーシカは、名前からしてすでに、
母をイメージさせるってことですか?
ええ。もし語源を知らなくても、
「マト(mat)」という音には、
インド=ヨーロピアン語族共通に
「母なるもの」というイメージがあります。
そういえばついでに、ちょっと余計なことを言うと
「マト」と言いますとね……。
ああ、それはマトリョーシカのことなんですよ。
有名なところでは「猫マト」とか
「政治家マト」でしょ、それから
「白木マト」「動物マト」に「ニッポンマト」……。
あ、いや、その「マト」と言われるとね、
私はショックなんだなあ。
たとえば、仮にロシア人に向かってそう言うと、
おやっと思って、ちょっとヤな顔すると思う。
ええっ! なぜですか?
ロシア語ではあまりいい意味になりません。
要するに性的なものを表す隠語的な言葉全体を
「マト」って言います。
もちろんこういったこともまた、
語源がマザーであることから来るわけですが。
マトリョミン、テルミン、ロモグラフィー
話がやや飛ぶんですけど、
最近マトリョミンという、
マトリョーシカの中に「テルミン」をしこんだ
楽器があるんですよ。
ええ、ありますね。ただテルミンは、
もちろんロシアにありますが、
マトリョミンはロシアにはないんじゃないかなあ。
テルミンにしてもマトリョミンにしても、
あの独得のマニピュレート感覚がいいです。
そういえば、ロシアの物って、
案外、ロシア以外の国々で再発見されて
世界じゅうに広まっていくってことが多いですよね。
考えてみれば、マトリョーシカと同じパターン。
そこがおもしろいんでね、
ロシアは政治的・経済的に後進的な国であって、
市民社会としては欧米とくらべて遅れている
といわれるし、確かにそういう面もあるでしょう。
しかし、こと芸術や文化に関していうと、
欧米のスケールで測ろうとすると、どうも違っていて、
周回遅れのようなものをぽっと出すんだけれども、
それがエキゾチックで、とても目新しかったり、
ふと気づくと、
彼らのほうがかえって先端的で
非常に大きなインパクトを持っていたり、
ということがありますね。
そういえば、ロモグラフィーなんかも
まさにそうですよね。
あれはたしかペテルブルグで作られていて
オーストリアで有名になるんですよね。
それがニューヨークに持ち込まれてグローバル化する。
ロモグラフィーについては別サイトの
「ロモ・フィッシュアイ2のトラブルシューティングと活用ガイド」
もぜひご参照ください。
モスクワとペテルブルグ、ふたつの町
ロモは、ロシアが持っていた
高度なレンズの技術から生まれてきたものですね。
ですから発信地としては
マトリョーシカと同じで、やはり限定的です。
マトリョーシカが生まれた頃、
モスクワは、ロシアの首都だったんですか?
いや、革命前だから、首都はペテルブルグです。
ペテルブルグもまた僕の好きな町なんだけど、
富裕層も官僚や軍人が多くて、
もっとヨーロッパ的な町。
ロモが生まれたのは、こちらですね。
一方ロシアの中心といえば、やはりモスクワです。
真っ平らな平原に、
セルギーエフ・パサートや
アブラムツェボのような村が点在していて、
芸術や民芸の文化が豊かにある。
中世以来の長い歴史があって、
趣味のいい外国の骨董を集めたりする富裕層がいて
自然とロシア的なものを育てている。
マトリョーシカに飛びついたのは
そういうモスクワなんですね。
マトリョーシカが生まれた時代
そういえばロシア・バレエ団(バレエ・リュス)
なんかも、ちょうど同じ頃ですね。
マトリョーシカがパリ万国博覧会に
出品されたのが1900年でした。
バレエ・リュスの
パリでの旗揚げ公演が1909年です。
20世紀初頭のヨーロッパでは
古典バレエは終わった、
生命を失っているからもう可能性はない、
と思われていました。
そこへ、ロシア人のセルゲイ・ディアギレフが
しかけていったのがバレエ・リュスです。
ロシア的な、土俗的な部分を──
もちろんそのまま持ち込んでもだめなんだけれども──
エキゾチシズムの材料になるようなしかけをつくって
殴り込みをかけるような感じですね。
するとヨーロッパがわーっと反応する。
決してヨーロッパのスタンダードに
合わせるようなやり方ではないんです。
またバレエ・リュスは、ロシアのバレエ団なのに、
パリやロンドンでたくさん公演を行ったけれども
結局ロシアの中では公演しませんでした。
同時代の名だたる作曲家……ラヴェル、
ドビュッシー、サティ、プーランク、
プロコフィエフ、レスピーギなんかが、
みんなバレエ・リュスのために曲を書いていますね。
ええ。ストラヴィンスキーの
『春の祭典(1913年)』の初演では、
現代音楽、舞踊、美術といろんな面での評価を巡って
会場が賛成派と反対派の大騒動になりました。
こういった活動がピカソやゴーギャンに影響を与え、
やがてはロシア・アヴァンギャルドという
大きなムーブメントへとつながっていきます。
そして政治的には1917年に
ロシア革命が起こるんです。
ツィオルコフスキーの夢
このようにロシア人は、
われわれの発想を大きく飛び超えて、
まったく新しいものを生み出すことがある。
そういう点で、また別の例として思いだすのが、
宇宙ロケットを初めて作った科学者。
これがまたロシア人なんだ。
ロケット工学の父と言われる
ツィオルコフスキーが活躍したのは、
ちょうどこの時代なんです。
ツィオルコフスキーは、最初は
宗教や哲学を学んでいたんだけれども、
地球上には人があふれていて、土地がない、と。
今と比べれば、当時はむしろ
土地なんかいっぱいあったと思うんだけど、
ロシア革命直前ですからね、
そういう危機感が影響していたかもしれません。
だから、人類は宇宙に出て行かなければならない
と、ツィオルコフスキーは考えたんです。
それまで彼は人文系の仕事をしていたわけですから
まさにエジプトの考古学をやりながら
宇宙のことを考えるような展開でね。
この文系/理系というのも
日本では区分されているけれども
彼にとっては、
どうでもよかったんだろうという気がしますね。
世界初の人工衛星「スプートニク」も、
ロシアのロケットでした。
「スプートニク」1号の打ち上げは、1957年ですね。
ツィオルコフスキーが生まれたのは1857年です。
「スプートニク」は彼の生誕100年を記念して、
打ち上げられたんですよ。
へえ~。そーなんだ。
(つづく)
ばんない・とくあき。一橋大学副学長・大学院言語社会研究科教授、社会学博士。1973年東京外国語大学外国語学部ロシア語科卒業。歴史的な視座からロシアの社会、宗教、神話と民衆文化の現場に注目し、これらを取り扱う民族学をその時代とともに考察・解明する研究で知られる。近著『ルボーク―ロシアの民衆版画』(東洋書店・2006年)など
著書
・論文多数。